木10ドラマ「いちばんすきな花」を見て、たった一人を選ぶことを考えた
友情にも嫉妬はある。
これは今期のフジテレビ木10ドラマ『いちばんすきな花』6話のタイトルの一部だ。
その意味はわからんでも無いけど、その言葉の後ろに想定される人間関係から、今の私は少し規格外のところにいる気がした。
確かに幼少期の人間関係の中では、“友情の嫉妬”を感じたことがあった。
何かにつけて「親友」だからと時間を共にしたがったあの子には、「水曜日は私と遊ぶ日にしてね!」とその子以外の友達との約束を取り付けられないようにされた。
今思い返すと、あれはまさに“友情の嫉妬”から生まれた束縛みたいなことだったんだと思う。
その束縛から逃れるために、翌週私は他の子との予定をさっさと入れて、約束を一方的に無効にしたように覚えている。
それから数年が経ち、結果、今の私には親友が10人くらいいる。
こう聞くと、驚く人もいるかもしれない。というか実際驚かれた。親友ってそんなたくさんいていいの?って。
きっとその中には、「親友って一番大事な一人の人のことを指すんじゃないの?」と戸惑ったり、「親友とはたった僅かな大事な友達を指す言葉ではないのか」と、その文字から大多数の人が想像するはずの感覚を持てていない私を、軽蔑する人もいるだろう。
実際、一般的にはもっと少人数らしい。
そしたら私は一番大事な友人を決めきることができない、人間関係にルーズで優柔不断な人間ということになるのだろうか。
たしかにこの10人の親友の中にも、深度のグラデーションはもちろんあるけれど。それぞれにしか話せない話や、相談できないエピソードもある。この子には伝わるけど、あの子には伝わらない、そんなニュアンスや楽しみだってある。
だけど何度頑張っても、それぞれの理由でこの子もあの子も私はみんなが大好きで、それぞれと関わり合う時間に同じくらいのかけがえのない思いを持っている。
そして、そんな思いを持つ人の存在は珍しく、おかしいことなのだろうか。自分の周りの友人もこんな調子なので、親友が何人もいる人はけっこう存在するはずだと、私は勝手に思っているけど。
同じように親友が複数人いる友人たちとは、こう話していることが多い。
生まれ育っていく各フェーズの中で一人ずつ、気が合うか、もしくはスタイルがあうかけがえのない存在がそれぞれにいる、と。そして自分も含め、みなこう話す「あなたみたいな存在が」と。
私も、親友に他の親友の話をする時は「あなたみたいな子」と伝えているのでこの気持ちはよくわかる。そして自分自身が同じことをしているので、自分がそう伝えてくれる存在であるということが何より嬉しい。
私にとっては「私みたいな存在」が、その子に他にもいることがとても幸せで、同時に、「その子みたいな存在」がいると伝えることで、その子が私にとって取り替えの効かないかけがえのない存在だ、と、きちんと伝わっていてくれたらといつも願っている。
さて、『いちばんすきな花』は4人の主人公・潮ゆくえ、春木椿、深雪夜々、佐藤紅葉という年齢も性別も異なる、しかし、それぞれの日常のなかで“友情”や“恋愛”にまつわる人間関係に悩んでいた4人の男女がふとした出来事を機に巡り会い、“友情”や“恋愛”に自然と向き合っていくことになる作品。
公式サイトでも、【新たな時代の“友情”の物語であり、同時に“恋愛”も含めた“愛”の物語】と紹介されているだけあり、台詞や演出から、物語を通してこれまでの固定概念や考えを見つめ直すきっかけになるような作品にしたいのだろうという意思が感じられる。
そして、冒頭にも書いた「友情にも嫉妬はある。」というフレーズは、このドラマの6話のあるシーンを象徴したような言葉だ。
主人公4人の仲も深まり、もう随分親しくなった頃。4人がよく集う春木椿の家に潮ゆくえが遊びに行くと、そこには潮の(かつての)男友達・赤田が保険の営業に来ていた。
ここで(かつての)と書いたのには理由があり、実は潮は唯一無二の存在であったはずの赤田と、しばし距離を置いている状況。彼の結婚を目前に、赤田は婚約者から女である潮と「今後2人で会うな」と言われてしまい、2人は長年の友情に終止符を打つことにしたのだった。
そんな(かつての)男友達である赤田は、今友達・春木と潮が家に上がって親しくしている様子を見て、いらぬ口を叩き、潮と赤田はしばし言い合いになる。
その様子を春木が他2人に「修羅場のようだった」と伝えたことで「友情にも嫉妬ってあるんだ」というような言葉が会話に登場する。
この場面の赤田の気持ちも、私はわからんでもない。
自分は相手にとってかけがえのない存在だと思っていたのに、距離を置いてる間にもう他に大切な存在ができていて、それを悲しく、寂しく感じ、嫉妬のような対応を取ってしまうことはあるだろう。
ただ、親友ともいえるような大事な存在が10人くらいともなれば、もうしばらく私はそんな感情を抱いていない。
大事な人がそれだけいるから、それぞれの友の他者との関係性に思いを巡らせ、ジェラシーを感じることから遠ざかったのだろうと思う。
20代も半ばを過ぎて、似たような感覚を持つ友人に恵まれたことで、“友情の嫉妬”由縁の束縛から離れ、“かけがえのない存在が平行して複数人いる”関係性を上手く保つことができているのかもしれない。
ちなみに、親友が10人いるとは、数多の友人の中から親しい人が誰かと想った時に一番が決めきれない、というよりも、それぞれが持っている異なる魅力に敬意を払って、それぞれの良さを愛して接していたらいつの間にか、そう思えるくらい大切な存在の数が「10人いる」と思うくらいに膨れ上がっていた、というニュアンスが近い。
歳が歳なので結婚していく友人も、結婚やその後に家族になることを強く意識している友人も周りに増えてきた。結婚に対して好感ばかりを持っていない私は、彼女たちの気持ちが全然わからない。けれども、だからといって彼女たちの幸せを願わないわけはないし、子供ができたら共に喜び、その子への贈り物まで必死になって探してしまう。
その分、結婚に対してあまり前向きではない感情を持っている友人も周りには多くいる。結婚はしたいけど子供は欲しくないとか、配偶者はいらないので子供だけ欲しいとか。色々と話題の卵子凍結についても、検討している友人もいる。
皆それぞれの価値観や人生観の中で、当人にとっての大切なものが少しずつ結婚という制度と違っているようだ。故に悩みながら、それでも自分らしく生きられるように工夫したり、新しい考えを学んだりしながら暮らしている。
行ってしまえば、こちらの友人の方が自分の目指す生き方と方向性は近しいけれど、だからと言って「こっちの方が好き」なんて単純な話にはならない。
どちらも親友であることには変わりない。志向とする方向性や、描いている未来像は異なり、なんなら反対の方向を向いてはいるけど、私はそれぞれが好きだ。それはそれ、これはこれ、というように。
そして最近、マッチングアプリを始めたことで一つ気づいたことがある。
私のこの考えは、どうやら友情だけでなく、恋愛の場面でも適応らしい。
「大切な人は一人であるべきだ」という信条の者には、親友という友達との間の事情なら上記のような考えもまだ受け入れてもらえるのだけれど、恋愛となるとそうはいかないことが多い。
一夫一妻制が基本である日本の恋愛では、「この人も、この人も好きだし大切」は許され難い。
けれども、人は多面的。どれだけ強い意志を持って「この人を愛そう」と心に決めても、なにか一つが噛み合わなくなった時、人生がたちまち立ち行かなくなりそうで怖いなと思うんだけど、みんなはどうなんだろう。
どれだけ愛する者であっても、意見や考え、趣向など、合う場面があれば合わない場面ももちろんある。そんな時、思いを通わせ、吐き出す先が一つしかないのは一か八かの賭けに近くはなかろうか。
穏やかに、自分の気持ちを大切にして日々を暮らしたいだけなんだけど、さて恋愛をしようとすると… いちばんすきな花、決めなきゃいけないんでしょうか。
私は全部好きなんだけどな。それは難しい希望でしょうか。
漫画「酒と恋には酔って然るべき」をノンアル人生の私が読んだら
なんやかんやあってマッチングアプリを初めてはや数か月。彼氏ができそうでできない。
ありがたいことに、最近の私は仕事も趣味も友人との予定もあまりに充実しすぎておりスケジュールがパツパツである。そんな状況下では、まだ知り合いでもないアプリの人にこまめに連絡を取ろうとするほど暇のはない。
加えて、「〇〇歳までに結婚したい!」というような願望もなく、アプリの人に会うために何が何でも予定をこじ開けるほど、切羽詰まってもいない。
結果、ほとんど会わない話さない相手に対して熱を持ち切ることができず、日常の中での“アプリの人”の優先順位は下がったまま。縁は繋がるもなかなか前に進まない。
想いを寄せてくれた人を好きにもなり切れず、私はどうしてもギアが入らないままである。
申し訳なさも感じつつ、アプリを続けるスタンスは人それぞれ。
「実際毎日忙しいしこれって仕方ないのかな!」、なんて開き直りかけていた私に、ある漫画がガラピカドッシャーンと雷を落とした。
その漫画とは、『酒と恋には酔って然るべき』。
『酒と恋には酔って然るべき』は読んで字のごとくお酒をテーマにしたコミックで、男いない歴3年目に差し掛かる32歳のOL/松子が主人公の恋愛漫画。
カップ酒をレンジで温めて家飲みを楽しむような大の日本酒好きな彼女が、絶妙な距離感の会社の後輩/今泉を気になりながらも、彼氏を作るべく(酒を愛しながら)奮闘する毎日を描いた物語。
主人公が日本酒好きということもあり、作中では登場人物の台詞や心の声、コマの一つでお酒についての豆知識が登場する頻度も高い。(何話目とかの話数が、〇合めって書かれてるのも可愛い)
体質的にお酒が全く飲めず、アルコールとは無縁の完全ノンアル人生を突き進んでいる私にとって、恋愛描写にキュンとしながらお酒にもちょっと詳しくなれるのは読んでいて嬉しいポイントの一つ。
お酒のある場にそもそも顔を出す機会がほとんんどない日常を送っているので、漫画を楽しみながらもお酒の知識を得られるのは非常にありがたい。
(松子たちがとっても美味しそうに飲んでいても、それを疑似体験でいないのが悲しいところだけど…)
メインの松子ちゃんがとっても明るく前向きな性格で、基本的にはコミカルにお話が進んでいくこの作品。だけれども、時には酒と恋をかけた心にピりりじわりと沁みる、台詞が差し込まれて…
例えば7合めで登場するこの台詞。
松子の同僚で、よく休憩時間などに雑談する仲の既婚女性/白石が放ったキレキッレなフレーズ。
「松子のはアレだよね、ファッション婚活だよね」
「婚活婚活っていうわりには何ひとつ参加してないし
マジじゃないけど年齢的に結婚したいですアピールしてるだけっていうか」
「だから本気の女に競り負けるんだよ」
「まあ 面倒なことは避けて
恋愛気分のおいしいとこだけ
つまみに酔うのもいいと思うよ」
そしてこのあたりのシーンを読み、「己のことか…?」とぎくりとしてしまった私は、自身の現在の恋愛事情を振り返ってみた。
実は先日(と言っても1か月前)、アプリで出会った男性(Kくん)と3回目のデートに行ってきた。
だいたいの男女が付き合うまでの一般的なデートの回数は3回。誰が決めたわけでも決まっているわけでもないけど、世間には、なんとなく3回目で関係性には変化がある …かもしれないという空気がある。
この前食事に行った友人にも「最近どうなの?」と聞かれて、次会うのが3回目の人がいる、と話したら「じゃあもうその人で決まりかな」というリアクションを返された。
案の定、3回目のデートではそのような空気が確かにあった。帰り際、すごく素敵なシチュエーションで二人で話す時間もあった。
その時、Kくんから「俺のことどう思ってる?」って聞かれた。
聞かれてしまった。
きっと恋活や婚活に意欲的な女の子であれば「好き♡」とか「気になってる♡」とかさらりと言えちゃうはずの質問。自分だって、好きな相手であれば今までだってそうしてきた。はずなのに、、、
どうって言われても、いい言葉を返せるほど気分は盛り上がってない。
当たり障りのない会話をしてまた会う約束をして結局この日はバイバイした。
もちろん、Kくんは3回目まで会うくらいの相手。恋愛対象としては見ているし人としても好きだ。人としては好きなんだけど。
会う頻度も連絡頻度も学生の頃のように高くはないし、知り合う時間が圧倒的に足りていない。相手のことも、知っているようでほとんど知らない。
そんな状況でお互い進んでいるからか、おそらくKくんも、まっすぐ好意を伝えるほどの想いは持っていなかったのだろう。
だから一度、私に聞いてみたんだと思う。私の感じも、伝わってしまったのだと思う。
たかが3回、されど3回、しかしたった3回しか会っていないほぼ他人。
どう思っているか、と答えを委ねられて無邪気に高いテンションで好意を伝えられるほどの熱と想いを私はまだ持てていなかった。
そこで気づいた。
なるほど、酒に酔えない私はなかなか恋にも酔えないらしい。
酔っぱらうと、大抵の人は正常な判断能力はなくなるし、時にはそれによっての大間違いだって犯すだろう。
だけど、恋愛においては、相手に(もしくは相手との関係に)酔っているくらいの方が上手くいきやすいのかもしれない。酔いもないまま恋愛をするには、大人はいろんなことを考えすぎる。
考えたって正解なんてないことをぐるぐる考えるくらいなら、ほろよい気分で空気や心に身を委ねているほうがよほどスムーズに相手のことを知れるとも思う。
とはいえ、体質的に私はもうどう頑張っても酒は飲めない。
嬉しいことも辛いことも素面ですべてを受け止めてきた。強すぎるほどに逞しくなってしまった私がここから、酔うように誰かに夢中になるなんて、きっとなかなか難しいんだろうなあ。
だけどその分、何にも酔っていない私が真正面から向き合って、大事にしたいと思う友人が、環境が今は私の周りにある。これってなかなかにいい生活だよ。
酔った勢いでどうにかなっちゃうような軽い男、全っっっっっく寄ってこないしね!(良くも悪くも!!!ワンチャンとかほぼない!!これはツライ!!)
酒にも恋にも酔えぬままではマッチングアプリは思うように進めにくい。けど、これも才能の一つだと思って松子のように前向いて生きよう!
今週のお題「最近読んでるもの」
「ホリデイ」のジュード・ロウっぽいシンパパとロマンスしかけた夜
「旅にハプニングはつきもの」とはよく言ったものですが、確かに自分も旅行をすると、何かしらの“思いもよらない出来事”に毎度遭遇している気がする。
そこで言われるハプニングとは、想定されやすいものだとロストバゲージや、けが、腹痛の類の不運なアクシデントが多いように思うけれども… こういうのはどうだろう。
ひと夏のアバンチュールという言葉があるように、旅先で生まれた一期一会であるはずの出会いに、何かしらの“縁”を感じてしまいそこから“何か”が生まれてしまう。そんな幸せなハプニングだって、なくはないはず。そう思うのは夢を見すぎだろうか。
いや、そこで起こるふとした展開に、日常の中ならあり得ない何かを期待もしてしまうのはきっと私だけじゃないはず。
それほど、旅は私達になにかしらの変化をもたらしてくれる。
例えば、映画「ホリデイ」は、旅先で起こるかもしれない“幸せなハプニング”を描いたとてもロマンティックな作品だと思う。
物語の舞台はクリスマスを目前にしたイギリスの雪降る田舎町と、アメリカ・ロサンゼルス(LA)で、ホリデーシーズンを前に恋に破れた二人の女性、LAに住むアマンダ(キャメロン・ディアス)とイギリスの郊外に住むアイリス(ケイト・ウィンスレット)が主人公。
「ホリデイ」はそんな二人が繰り広げる、2週間の恋模様を描いたラブストーリーだ。
このお話は、彼女たちが傷心を癒やすためホームエクスチェンジをし、2週間の期限付きでお互いの住む街をや暮らしを交換して休暇を過ごすところから始まる。
2人はそこで出会ったそれぞれの街に暮らす男性、アマンダの友人/マイルズ(ジャック・ブラック)とアイリスの兄/グレアム(ジュード・ロウ)と知り合い、彼らに惹かれはじめ、新天地で見つけてしまった恋の予感に戸惑いながらも、新しい出会いを楽しんでいく。
作中ではLAと英国、2つの場面を行き来しながら2組の男女のロマンスの行方を見守ることになるのだが、欧米のホリデーシーズンを描いた物語でもあるため、「クリスマスに見たい映画」として名前が挙がることも多いこの作品。
実際、物語を彩る劇伴音楽、雪の積もった英国の街並み、心温まるハッピーエンディングのおかげで見ているだけでクリスマス気分がめちゃめちゃ高まるので、私もクリスマスが近づくこの季節によく見返している。
作品自体の出来が素晴らしいのはもちろんではあるものの、これに加えて、たった2週間のホームエクスチェンジ中の出来事とは思えないくらいの展開の詰め込みようなのも、この映画を何度見ても飽きない理由の一つかもしれない。
私だったら2週間を寝て過ごし休暇をリフレッシュで終わらせてしまいそうなところだけれども。LAで暮らすことになったアイリスは、マイルズをはじめとしたご近所の住人達と仲良くなり、ホームパーティーまで開くコミュ強だし、英国でのんびり過ごすつもりだったアマンダは、出会ってすぐの男と意気投合して逢瀬を重ねた結果、彼の子どもとまで仲良くなる始末。
ラストでは、アイリスはLAまで追ってきた自分を傷つけ続ける浮気男を吹っ切ることに成功し、高校生の頃から泣けなかった心の強すぎるアマンダは、別れ際に涙を流したことをきっかけにグレアムへの気持ちに正直になる決心をする。
たった2週間で完璧に傷心から回復し、次の生活をスタートしている2人には尊敬の念しかない。
そしてそう、実はグレアムは2人の小さな娘がいるシングルファーザー。そのことを隠してアマンダと親密になってしまったことで、途中キャメロン・ディアスも混乱。
でも、それでも惹かれてしまうアマンダの気持ちがわかるくらい、ジュード・ロウ演じるグレアムがこれまたとんでもねぇイケおじで、しかも言葉のセンスも洋服のセンスもいい。とても子持ちには見えない余裕のある大人の男性で、それがまた罪深さに拍車をかけている状態。おまけに娘たちの世話も一生懸命見ているし、子育ても上手。そんな姿を見たら嫌いになんてならないよな~と勝手に納得してしまうレベルの仕上がりだ。
でもこれは本当に。かっこいいシンパパは、こどもと一緒にいる姿を見ると余計にかっこよく見えてしまう。この気持ちはよくわかる。
実は、先日旅行に行った時、私も似たような状態になりかけたから。
旅の非日常感が人を開放的にさせるのか、「ホリデイ」のアマンダとアイリスのようないつもの自分ならあり得ないような大胆な行動を、私も起こしてしまった。
事の発端は、旅行の帰り便の飛行機だ。
3時間にも及ぶフライトで、3人がけの座席の窓際のチケットを持っていた私。カップルや友達の2人組か、はたまた全員他人同士の1人が揃うのか、隣に座るのはどんな人が来るだろうとそわそわしていたら、そこに現れたのは小学生くらいの男の子を連れた男性だった。
少し離れて奥さんや他の家族などが座っているのかとも思ったが、どうやら2人だけのようで、会話を聞いていてもとても仲睦まじく、何より、その男の子の会話の受け答えから男性の子育てがとても上手いことがよく伝わってきた。
素敵な家族だな、と思いながらも音楽を聴いたり映像を見たり、別に隣の席同士で干渉しあうこともなく、好きなようにフライトの時間を過ごしているとあっという間に着陸の時間に。
無事目的地に着いた飛行機のドアが開き、たくさんの人が出口に向かい混雑する機内で、まさかの、その男性に声をかけられた。
かけられたと言ってもこの時はいきなりナンパされたとかではなく、座席上にある私の荷物を降ろすと提案してくれただけなのだけど、すごく親切に手伝ってくれた。
飛行機から降りた後、私が歩く少し先に手をつないで親子で歩く姿が見えた。
そしてその直後、仲いいんだな、と思って傍目で2人を見ながら歩いていると… 何かでぐずる男の子を先に行かせて、その男性がこちらをちらりと振り返ったのだ。
何かに引き寄せられた気がした。
ここだけの話を切り取って聞くと考え過ぎだと言う人もいるだろうけど、こういうときの人間のこういう勘はけっこう当たる。
予感の通り、空港の出口まで続く歩く歩道の上をわざわざ立ち止まって、私たちは少し話しをした。あの時間。機内の人込みを抜けたばかりの冷めない熱のせいか、飛行機から降り立った後のふわふわとした夢心地のせいもあったのだろうけど、今にも何かがはじまりそうなドキドキとした心の動きと少しの緊張を感じていた。
身のこなしや着ている洋服、何より会話のやりとりが素敵だったあのお父さん。
映画の中のジュード・ロウ程の完璧なビジュアルではなかったけれども、「ホリデイ」のグレアムを彷彿とさせるくらいのとてもいいパパだった。
ただ、歩く歩道ももうすぐ終わり出口の方向で別れに差し掛かるという頃に、なんだか先を急いだほうがいい気がし話を切り上げ、私がその場から離れてしまったためにこの先には何も続かなかった。
アマンダとグレアムのようなロマンスになり切るには、私はまだ、未熟だったらしい。
父親としてちゃんとしている姿を目の前で見ているのもあるからか、人としての魅力は短い時間でも十分に感じていたあの人。
思い返せば返すほど、「連絡先でも聞いておけばよかったかな」と思わなくもないが、たらればを言っても実のところはわからない。
ひと夏の恋はひと夏らしく後腐れなく終わるからいいのと同じで、相手の問題に踏み込まなかったからこそ、綺麗な思い出の素敵なお父さんの姿のままであの人を私の記憶に残しておけるのかもしれない。
しかし、私は今回のことで一つの可能性を知ることができた。
子持ちの男性との恋愛が上手くいけば、自分で出産をしなくとも、子供を育てることができるかもしれない。
そう思うと、今のところ“子供を産みたい”という気持ちを全く持たない私にとっては
シングルファーザーとの出会いは今後大いにアリである!!!
所謂“コブ付き”と言われ、人によっては恋愛関係においての懸念事項となってしまうかもしれない“シンパパ”だけど、私にとってはそれが利点になることに気づけた。
あの人とのロマンスは手にできなかったけど、人生の選択肢がまた一つ広がった夜だった。
嘔吐恐怖症が「ピッチ・パーフェクト」を見て少し改善された話
荒治療的な面もあるので、全ての悩みや不安障害を持つ方に効く保障はないのですが。生きていく上での長年の悩みだった嘔吐恐怖症から、「ピッチ・パーフェクト」を見たことによって、私は解き放たれました。
摂食障害とかではないのですが、私には“吐くのが異常に得意”という特異能力があります。
たしかにこどもの頃から身体は弱く、学校を休んだり、早退したりもしがちだったけど、「それにしても…」というくらいの高頻度で、幼い頃から、それもありとあらゆるタイミングで私は戻してきました。(とんだ才能ですね)
この経験と体質によって、忘れたくても忘れられない苦い思い出や感情がこれまで私の中には何度も蓄積され、それらを思い出してまた苦しくなり、そしてまた吐き気を催す… そんな悪循環の中にいた時期もありましたが、実はある日を境にそれらがすっと解けました。
それは私が何度も見返すほど大好きな映画「ピッチ・パーフェクト」を鑑賞中に、ひらめくようにとあることに気づけたからでした。
※ここから先には「ピッチ・パーフェクト」の軽いネタバレと衝撃的な嘔吐の記述がいくつか出てきます。一応言っときますね。言いましたからね!!
「ピッチ・パーフェクト」は、将来音楽業界で働きたいという夢を持つ主人公/ベッカが、ひょんなことから大学で“アカペラ”と出会い、仲間とともに大会優勝を目指す青春音楽映画です。
何も考えず、純粋に、とにかく楽しみたい時に見る作品の一つ(言わば中身がない作品)のように名前が上がることも多いこの作品ですが、私はかなり実力派な作品だと思ってとても楽しく、それも何度も見ています!
作中には所謂ご都合主義的な、フィクションだから許されるような突飛な展開や、ひたすらアホで下品なシーンもたくさんあって。だからこそ、実際なんにも考えずに見ることもできるんだけど、そんな細かい作品の良し悪しなんか、まじでどーーーーーーでも良くなるくらい、とにかくキャストの歌が皆べらぼうに上手いんです!
出てくる人出てくる人の歌が良すぎて、なんどでも聞いていたくなり気が付くと全部見た後に毎度もっかい再生ボタンを押している私がいる。
“アカペラ”がテーマのお話だから10分に一回くらいは誰かしらが歌ってるし、それぞれの楽曲のアレンジもめっちゃいい。BGMがわりに流し見してても楽しめます。
色んなことに疲れて何も頑張れない時でも、これを見るとどこかしらからたちまち力がみなぎりやる気が湧いてくる。日々の暮らしが立ち行かなくなるととりあえず「ピッチ」を見てめちゃ上手い歌唱と元気を貰う。「ピッチ」を定期的に摂取しないとダメ。「ピッチ」は私の麻薬。
それくらい大好きで、もう私の人生になくてはならないものの1つになったこの映画なんですが、作中に一箇所だけトラウマ級の衝撃的なシーンがあります。画的な意味でも、今回冒頭で書いた自分の辛い過去の記憶を掘り起こされるという意味でも。(いろんな意味でかけがえのない作品ですね)
この映画の中で、主人公/ベッカは大学で“ベラーズ”というアカペラ部に入ることになり、そこで一癖も二癖もある個性を持った変わった仲間たちと出会います。友達を作ることが苦手だったベッカは、“ベラーズ”の活動を通して時にぶつかり合いながら、最後にはかけがえのない友情と、最高のハーモニー(と、めっちゃ歌上手くて優しい彼氏)を手に入れるのです。
問題のシーンはその“ベラーズ”に所属する、リーダー/オーブリーにまつわる場面として登場します。しかも、結構序盤と、中盤の2回も。
オーブリーは、少しプライドの高い最高学年の女の子。スタイルも容姿も良くて、欠点なんてないように思えるのですが、実はベッカたちが入部する少し前のアカペラ大会で、歌唱中にマーライオンのようにステージ上からゲロをまき散らしてしまうという大失態を犯していました。(結果チームは敗退、しかもこのせいで新学期からの入部メンバーも集まらないという最悪の状態に)
このオーブリーの嘔吐シーンはハリウッド映画史に残るトラウマシーンと言っても過言ではないくらいの衝撃度なので、まじ未視聴の方は心してください。(コメディなので面白おかしくは描かれていますが!)
そして、何度も言うように「ピッチ・パーフェクト」は本当に大好きな映画ですが、個人的な事情から、私はこのオーブリーの場面だけは身を割かれそうな思いで毎度見ています。
人前で盛大に吐いたことがある人には痛いほどわかってしまう彼女の気持ち。恥ずかしさはもちろんあるんだけど、それよりも「またおなじことをしてしまったらどうしよう」とその後は吐くこと自体が怖くなる。そして、その不安がプレッシャーになってまた吐きそうになってしまう、という最悪の無限ループが始まるんです。その苦しみをどうしても一瞬思い出してしまうんで、ここだけはしんどいんですよね…
私も彼女と同じく(なんて言ったらあのプライドの高そうなオーブリーにはめっちゃ嫌がられそうだけど)人前で吐いたことがあり、それがしばらくトラウマになって心配で体調不良になってまた吐き気を催す、という経験があるから。
というかなんなら私の方が、きっとこれまで人前で粗相してしまった数でいうと多いくらいだと思います!小学生の頃から高校生の頃まで毎学年どこかの登校時間中に、なにかしらのタイミングで吐いたことがあるレベルなので彼女より確実に、ハイスコアだと思うよ!(全く自慢にならないけど!)
その中でも、中学校2年生の時、水泳の授業中にプールサイドで吐いた時の記憶は壮絶な一場面として今でも私の頭の片隅にこびりついてます。
5時限目のバタフライ、めっちゃ頑張って泳いでたら頭がくらくらしてお昼御飯が全部出ました。(この頃から「やばい吐きそう」の“予感”の精度が高まってきます)
この記憶、さらに最悪だったのが、この日私から出たものを授業をサボって見学していた同じクラスの性悪ギャルが掃除するはめになったんです。でも、「なんでこんなことーー(私が)」って言いかけたその子に、別のギャル(優しい)が「体調不良は仕方ない、自分だにもあるでしょ」的なことを言い返してくれたことがすごい思い出。
あたたかいギャルの優しいことばも、性格の悪いギャルの厳しい視線も同時に注がれた強烈な時間。あの時のなんとも言えない空気は今でもずっと記憶の隅に残っています。
そこで起こったことに対して、何を思うかも、何を言うかも全部“人による”。ギャルとか、自分が虚弱体質とか関係なくて、全部“その人”がどう感じるか。どんなことでも、それぞれの見方をする人がいる。
そして、二人の間に信頼や日々の関係性があれば、たとえ真反対の意見でも、自分の考えていることを包み隠さず相手にぶつけることができるんだ、と身をもって私が学んだ日でした。(そのあとも二人が全然わだかまりなく話していたので)
さて、このような強烈な苦しい機会に何度も見舞われた青春時代を過ごしたお陰で、大学生になる頃にはプロを名乗れるんじゃないかと思えるくらい吐くのが上手くなりました。
寮のトイレでも、学校近くの定食屋でも、これはまずいと、“予感”がしたらすぐに個室にかけこみ、周囲を全く汚さないまま保ち、何なら落ち着き払って消毒までしたうえでその場を離れる技術を身に着けたのです!(絶対に日常では誰にも自慢できない能力なので未だ人知れずですが、)
この能力は未だ現役で、ついこの前は久々の体調不良にも関わらず、開口部わずか20センチのビニール袋の中に綺麗に収めることに成功しました。全く周りが汚れていなくて、助けようとしてくれた友人も驚いてたレベル。
この時一緒にいた友人は、以降の一緒に過ごすはずだった時間も潰れてしまったし、衝撃的な場面を目撃させてしまったし、そのうえ何なら本人よりも恥ずかしい思いをさせてしまったかもしれないけど、それでも私のことをめちゃめちゃ心配して、また遊びにも行ってくれます。
その日、戻した疲れもあって静かに過ごしたくて、でも家に帰るととにかくなにも考えずにただ、暗い気持ちを明るくしてほしくて横になって「ピッチ」を見始めました。
「ピッチ」の中にはオーブリーが2回目に戻したことをきっかけに、“ベラーズ”のみんなでそれぞれの秘密を打ち明けあい、仲を深めるシーンがあります。
このシーンを見た時に、「あぁ、そっか。私が恥ずかしい姿を見せても、私のことを嫌いになんてならずに、心配して、支えてくれるんだ。そんな仲間が自分にもいるんだ。これまでも、みんなにたくさん救われてきたな」ってわかっていたつもりでいた、当たり前の有難さに改めて気づかされてめっちゃ泣きました。
悲しいかな、私は逞しい身体を持って生まれることはできませんでしたが、大事なものをこぼしまくっても、ぶちまけても側にいてくれる存在が私にもいる。そんな友人がいることは間違いなく私の何よりの財産で、かけがえのない私の人生の一部です。
そして、このことに気づけたことで、私は不安を忘れて、少しだけ前を向いて毎日を楽しむことができています。
ちなみに、このオーブリーの2回目のゲロシーン、人によっては非常に強い不快感を催す場合もあるかもしれないくらい汚い場面ではあるんだけど、その後に歌われる「Just the Way You Are」(ブルーノマーズのやつ)のアレンジがとっても綺麗なのでぜひじっくり観てほしいです。
んで、それにしてもよ。
「ピッチ・パーフェクト」をシリーズを通して何度も見返して、“ベラーズ”の絆の強さを見て毎度思うけど「Just the Way You Are」でいられて、その姿を見せられる存在がいるって、ほんと、最高!!!!まじで、なんでも言い合える友達は生涯かけて大事にしていこうな!!!
そして、今この文章を読んで、自分の周りにいてくれる「そんな大切な友達のことが愛しくなった」人、反対にまだそんな存在に出会えてないけど「そういう関係性の大切な誰かがいる人生に憧れる」人、とりあえず全員今すぐ「ピッチ・パーフェクト」見ようぜ!!!!!!
絶対後悔させないから!!!!!!!
(ただし食事中の鑑賞だけは非推奨)
今週のお題「こぼしたもの」
G線上のあなたと私とアプリで私が出会った男
マッチングアプリで知り合い、何度かやり取りを重ね、食事の予定を入れた男性と会う直前はいつも緊張する。
ただ、この“緊張”はロマンティックなときめきなんかによるものではなくて。今日会う人には嘘がありませんように、とか、この時のために支度した私の時間が無駄になりませんように、とか。
自分の選択に間違いがないよう祈るような気持ちから、心が張り詰めて生まれる。そんな緊張。(ドキドキ、というよりヒヤヒヤ、)
「時間を無駄にした」
婚活パーティーで出会った男性とのなんとも言い難い微妙なデートを終えて、“也映子ちゃん”は居酒屋でそう言った。その時の彼女の気持ちが、今日の私にはよくわかる。アプリで知り合った男性とのデートのために、時間をかけたことを、今すごく後悔している。
“也映子ちゃん”が何者かというと、彼女は『G線上のあなたと私』(以下、長いので『G線』)というバイオリンをテーマにした物語の主人公で、寿退社するまさにその日に恋人から婚約破棄された痛みを持つ27歳の女性。
『G線』は、そんな仕事も結婚も失った彼女が、“酔狂”で通い始めた「大人のバイオリン教室」で出会った大学生/加瀬理人と主婦/北川幸恵との交流の中から生まれる友情や恋模様、また彼らを悩ます人間関係を描いたドラマ作品だった。(原作はいくえみ綾の同名漫画。)
もちろん、バイオリン教室が物語のきっかけになる分、作中の様々なシーンを素敵な楽曲が彩ってはいるものの、この作品は有名作曲家の名前が飛び交うような重厚な音楽ドラマなどではない。
むしろ、登場人物たちがそれぞれの生活の中で抱える問題や不安が丁寧に描写され、それらが絶妙なパンチラインで台詞として紡がれていく。その数々がまー、心に響くこと響くこと…
“バイオリンをテーマにした物語”と先ほど書いたけれど、ちゃんと言うとバイオリン教室を通して出会った3人の男女が、悩みもがきながら前を向いていく人間ドラマという説明がしっくりくるような作品だった。
ドラマの放送から3年以上がたった今でも、私はこの作品の中で語られた言葉に心を掴まれたまま。それほどに、ドラマの中のキャラクターたちだけでなく、日々を生きる私たちにも突き刺さり、その心情をまさに表現してくれるようなセリフがこの作品にはたくさん詰まっている。
さて、その中で、冒頭に書いた「時間を無駄にした」という台詞が出てくるのは『G線』の第5話。
悩み傷つきながらも前に進もうと婚活と就活をはじめた也映子が、参加した婚活パーティーでカップル成立した男性/白鳥に誘われ飲みに行くことに。紆余曲折あり、白鳥と飲みに行った後、居酒屋で理人と飲みなおしているシーンの中で話される。
「時間を無駄にした」は一見、文字だけを見るととても悲観的な思考に思えるかもしれない。しかし、作中でこの言葉は「時間を無駄にした」そのこと自体を嘆くためではなく、彼女がそこから何を得たか、どんな気持ちでこれから自分は進むのか、表明するようなために使われている。そんな也映子の前向きさがぎゅっと詰まった一場面。
実は、このシーン、あとに続くのはこんな言葉だった。
「大切な自分の時間を誰のために使いたいかってことだよ。
一番わかりやすいと思わない?考えてみて。
今まで自分が誰のために時間を割いてきたのか。
それか、意識していなくてもつい時間を過ごしてしまうのは誰なのか。
きっとそういう誰かがさ、本当に大事な人なんだよきっと」
この一連の台詞が本日、アプリで出会った男の人とカフェで話していた時、私の心にぺったり浮かんで離れなかった。
私は今日、3㎝のヒールがあるパンプスを履いていた。彼がアプリのプロフィール欄に記載していた身長を考えると、本当ならヒールを履いた私よりも彼はあと6㎝高くないといけないはず。しかし、鏡に映った私と彼は、なぜだろう、頭の高さが全く同じだった。これが今日、私が「時間を無駄にした」と思ってしまった理由の一つだ。
背が低い、という事実よりも、嘘を吐かれた(しかもばれないと侮られてた?)ことが悲しく、そしてその後のすべての気力を失う。
自分だって、誰かをとやかく評価できるようなすべてにおいて秀でた人間ではない。だったらそれくらい目をつむるべき、という人だっているだろうけど。だけど、私は、差し出した自分の情報に嘘はついていない。
身長や年収を偽る人は多い。噂には聞いていたが、これから関係を築いていこうとするまさにその人と、嘘を吐いてはじめようとすることも、そんなことを考える人が多いこともアプリを始めたここ最近で私はようやく知った。私はそんな人に、大切な私の今後の時間を使いたくない。
あまりにも一人で過ごすことに慣れ、それを苦に思っていなかった。それゆえ、私は20代後半になるまで、このマッチングアプリ戦国時代にも関わらず、アプリに登録した経験がなかった。
(今の私がどんな人間か、はひとつ前のこの記事に書いてあります。よかったらぜひ)
だからこそ、まさかそんな、身長を盛っている男性がいることも、そんな男性がいることを想定してプロフィール欄をチェックする必要があるという思考も持ち合わせていなかった。
既知の人間関係からではなく、アプリを介して出会う場合はプロフィールの情報こそが相手を判断するためのすべてだ。だからこそ、どう見切るのか。それは、アプリを上手く活用するために欠かせない能力だと知った。
『G線』の視聴を通して、そこで語られた台詞を通して、どんな状況でももがきながら前を向く也映子の姿を見てきた。今や私には、大切な人以外に時間を使うという選択はない。もはや、生まれてしまった「無駄な時間」をそのままにしておくという余地なんかもうない。
ので、
さくっと切り上げて一人でカラオケに行ってきました~!
そういえば『G線』の也映子たちもよくカラオケ行ってたな。バイオリンが奏でる美しい「G線上のアリア」を聞いて傷ついた心が救われたり、曲の言葉に想いを乗せて発散したり。音楽の力って偉大だ。
だがしかし、やはりアプリへの登録は1度さっさと試しておくべきでした。
便利なツールがあることを知りながらも、なにもしてこなかったこれまでを「無駄な時間」とは思わなくとも、勿体ない日々を過ごしていたとは感じる。もう何度もアプリで誰かと会ったり、恋人ができたり、その結果うまくいったり行かなかったりを重ねた人は、こんな悩みはとっくに飛び越えて、有効活用できてるんだろうし。
ちなみに『G線』には今回紹介した他にも、素晴らしい台詞や登場人物がたくさん登場するので、婚活やアプリ、日常に少しもやもやしながら暮らしている人はぜひ。
飄々としてる(でもわりと真理突いてる)理人のお兄さん/侑人とか、侑人が抱えた秘密を知りながら「何も言わずニコニコ」し明るくふるまうその妻/芙美とかいい存在。(芙美役の滝沢カレンが特に!)
それから最後に、すべてのマッチングアプリに登録している男性へ、これだけは言い残させてほしい。
身長は盛るな、会えば、絶対にばれるぞ!!!!!
そしてもし、嘘を吐きながらも上手くいったなら。 きっと、本当のことを知っていながらも「何も言わずニコニコ」してくれているあなたの隣にいる方の優しさを、どうか大切に。
ブリジット・ジョーンズ(になりかけてる女)の日記。
高校生の頃、映画を見るのが好きだった私は、同じように洋画を見るのが趣味だったある女の子と仲良くなった。
その子と話すようになったきっかけは海外ドラマ『プリティ・リトル・ライアーズ』。男女共学になったばかりの私たちの学校は女子生徒の数が全体の4分の1ほど、ともともと少なく、その中で“海外ドラマをわざわざ見ているの女の子”の数は限られていた。
小中学生の頃に『gossip girl』が世間で流行り、高校生になると本格的な『glee』のブームが到来。そんな洋画ムービー/ドラマブームの真っ盛り時代に仲良くなったその子とは、今思えば本当にたくさんの作品について感想や情報を話しあっていたと思う。
『ブリジット・ジョーンズの日記』はその中でも、何度も2人の間で話題に上がる、私たちのちょっとお気に入りの作品だった。
主人公/ブリジット・ジョーンズは、ロンドンで一人暮らしをする出版社の広報社員で3イギリスに住む30代の独身女性。そんな彼女の設定だけを聞くと1人たくましく生きている、強くてカッコいい女性の姿を思い浮かべる人も多いかもしれない。
実際には、そのようにイメージされる所謂“バリキャリ”ではなく、ちょっと抜けていて、ドジでおバカな愛すべきヒロインなんだけれども。(孤独を感じて煙草を1日で2カートンも消費するような。いつもつけている日記に、体重と飲んだアルコールの数を記録しながらも、反省することがないような。)
決まりきらず、美しすぎず、完璧でない女性。等身大で時にダサい姿も周囲にぶちまけながら生きている30代の姿。作品の中で描かれるブリジットの毎日は、確かにかっこよい生き様ではなかった。けれども、まだ高校生の私たちにとって、彼女は少しだけ遠くにいる“お姉さん”だった。
私達は映画の中で繰り広げられるあり得ないコメディシーンやマヌケな彼女の一挙手一投足にゲラゲラ笑って、彼女のことを「愛すべきキャラだよね」、「ああいうヒロインもあり」、なんて上から目線で話して。
バカでまぬけだけど、なんとか生きてるブリジット。彼女のありのまま(just as you are.)の姿は、当時何者でもなかったごく普通の高校生である自分たちにとって、未来にあり得るかもしれない、自身の将来に非常に近しい女性像として映った。ブリジットの心情や言葉に共感し、ヒット作品のヒロインとしてそんな存在がいることを少しありがたくも感じていた。
反面、ブリジットのダメダメなキャラクターは「フィクションの中の架空の存在だから許されるパーソナリティ」だと、どこかで感じていたし、それが救いでもあった。まさか自分たちはそんな大人にはならないだろう、と思っていたから。
あの頃、一緒にブリジットを笑っていた友人は2年前に結婚し、故郷を離れ旦那さんの実家の近くでもうじき1歳になる元気な男の子を育てている。(以降、匿名Fくんとする。ただしFくんの話が出てくることがあれば)
対する私は、都内にオフィスを構えるメーカーの広報の一員として働いている。メディアからの連絡を受けたり、イベントの司会をしたり… そう、奇しくもブリジットが作中の出版社で担っていた業務に非常に親しい仕事をしている。
“広報関係の部署”と人に話すと、「花形部署だ」と羨ましがれ、華々しいバリバリのキャリアウーマンをなぜか想像されてしまう。そしてその人の中で“きっと仕事ができる優秀な人なのだろう”と私に対する間違った印象が勝手に出来上がることが多い。(非常にありがた迷惑)
高校生だった私達は映画を見て
「あんなに仕事をサボって友達と電話してる人なんていないはず」
「上司や取引先の偉い人と仕事にかけつけてエロい連絡なんかしないはず」
「あんなミニスカートやシースルートップスでオフィスにでかけるはずない」
なんて彼女のダメな働き方はさすがにフィクションの産物だろうと思っていたけれど、実際に社会人になり働き出してみれば、現実に生きる私の毎日もそんなもんだった。
コロナ禍でリモートワークが当たり前になり、在宅勤務の日には友人との旅行の予定を電話で話しながら資料を作ったり、仕事に繋がった関係者と「いつ飲みに行けるか」の打ち合わせが捗ったり。何ならオフィスカジュアルが浸透しているうちの会社は、ミニスカートも髪のハイライトも、厚底サンダル出勤も(偉い人は目くじら立ててるけど)容認されている。
友人の中にはZoom会議中、することがないからスパイスカレーの玉ねぎを2時間炒めていた人までいる。(顔出しがなくて助かったらしい。綺麗なあめ色にできたって)
ブリジットも、作中には彼女がちゃんと働いているのか、何の仕事をしているのかわからないけどとりあえずサボってる、そんな描写は多かったが、まさか自分がそのポジションにいる怠惰な人間だったとは、高校生の頃には夢にも思っていなかった。
5日に一回、いや、2週に一回、いや、半期に一度、上司が喜ぶ大手柄を挙げられたらいい方。(これもブリジットみたいで書いてて嫌になりかけた)
そのうえ、今の私は独身、料理のセンスもなし、もちろん子なし、そして特定の恋人もいない。仕事だけではなく、プライベートの状況まで彼女そっくりの“シングルトン”になってしまった。その上部屋の汚さも酷似しているのでマジで救いようがない!
ブリジットと私の違うところといえば、私がまだ20代半ば(この歳でこの状況)で、ロンドンのおしゃれなフラットとは程遠い東京の狭い1DKに住んでいて(もちろん23区外)、体重は50キロもないくらいの細身、そして彼女のように破天荒な日々を送っていないところ。
ノンスモーキング、ノーアルコール。真面目とまではいかないけれど、彼女と比べれば随分と質素な生活。時代が違うから単純に比べられない部分はあれど、何ならブリジットよりも「惨め」やら「かわいそう」やらとあの作品の名なら言われていてもおかしくないと思う。
それでも、現実の私は就きたかった職業に就き、少しばかり仕事ができない姿を周囲に晒しながらも、ある程度の収入と一人で生きる自由を得て楽しく暮らしている。
23区の内側に住めるほどの高給取りでもバリキャリでもないけれど、おかげでストレスも、仕事のプレッシャーもない、ほどほど穏やかで豊かな毎日を手に入れた。
好きな服を着て、好きな時に人に会い、好きなものを食べる。結婚願望もない分、まだまだアプリで知り合った男の子と適度に会って時間を潰したりするくらいでちょうどいい。(将来の自分は今の私をどう振り返るのか、)
ブリジットは好きだけど、彼女のような女性になんてなるものか。心のどこかでそう思いながら映画を見ていた高校生の自分は信じないかもしれないけれど、ブリジット・ジョーンズのような毎日もかなりいいものだと今では思う。
この3連休、空いてる時間があればどこかで会えないかとあの友人から連絡があった。結局、F君(再び登場)の肌に蕁麻疹が出てしまい、予定はなくなってしまったんだけど。
10月に入って暑すぎるほどだった気温が急激に低くなり、F君のお肌が敏感になっているかもしれないらしい。長袖か半袖か、着せる服にも迷うそうだ。子育ては、これまた高校生の頃に想像した以上に大変なようで、自分の気ままな暮らしを一層いとおしく感じる。
「いつかお互いに大切な家族ができたらこの変なセーター着てクリスマスパーティーしようね!映画みたいに!」
作中でブリジットと恋する相手、マーク・ダーシーがパーティーでトナカイ柄のセーターを着ているシーンに洋画好きとして憧れた。翌年、H&Mで見つけたおかしな柄のセーターを抱えてレジに並びながら約束したことを、あの子はまだ覚えているだろうか。
久々のあの子とのやりとりと、すっかり冷たくなった風を受けて、今日はあのセーターを思い出した。
もう10月だ。今年もまた、一人で過ごす(かもしれない)クリスマスがもうすぐそこまで来ている。
冬が来る前にすべての服を整理しよう。そして今年こそ、あのセーターに袖を通す!
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今週のお題「急に寒いやん」