東京シングルトン的考察

「独りで立派に生きていける独身者」= シングルトン な私の日常とエンタメの雑記

木10ドラマ「いちばんすきな花」を見て、たった一人を選ぶことを考えた

友情にも嫉妬はある。

 

これは今期のフジテレビ木10ドラマ『いちばんすきな花』6話のタイトルの一部だ。

 

その意味はわからんでも無いけど、その言葉の後ろに想定される人間関係から、今の私は少し規格外のところにいる気がした。

 

確かに幼少期の人間関係の中では、“友情の嫉妬”を感じたことがあった。

 

何かにつけて「親友」だからと時間を共にしたがったあの子には、「水曜日は私と遊ぶ日にしてね!」とその子以外の友達との約束を取り付けられないようにされた。

 

今思い返すと、あれはまさに“友情の嫉妬”から生まれた束縛みたいなことだったんだと思う。

 

その束縛から逃れるために、翌週私は他の子との予定をさっさと入れて、約束を一方的に無効にしたように覚えている。

 

それから数年が経ち、結果、今の私には親友が10人くらいいる。

 

こう聞くと、驚く人もいるかもしれない。というか実際驚かれた。親友ってそんなたくさんいていいの?って。

 

きっとその中には、「親友って一番大事な一人の人のことを指すんじゃないの?」と戸惑ったり、「親友とはたった僅かな大事な友達を指す言葉ではないのか」と、その文字から大多数の人が想像するはずの感覚を持てていない私を、軽蔑する人もいるだろう。

 

実際、一般的にはもっと少人数らしい。

 

そしたら私は一番大事な友人を決めきることができない、人間関係にルーズで優柔不断な人間ということになるのだろうか。

 

たしかにこの10人の親友の中にも、深度のグラデーションはもちろんあるけれど。それぞれにしか話せない話や、相談できないエピソードもある。この子には伝わるけど、あの子には伝わらない、そんなニュアンスや楽しみだってある。

 

だけど何度頑張っても、それぞれの理由でこの子もあの子も私はみんなが大好きで、それぞれと関わり合う時間に同じくらいのかけがえのない思いを持っている。

 

そして、そんな思いを持つ人の存在は珍しく、おかしいことなのだろうか。自分の周りの友人もこんな調子なので、親友が何人もいる人はけっこう存在するはずだと、私は勝手に思っているけど。

 

同じように親友が複数人いる友人たちとは、こう話していることが多い。

 

生まれ育っていく各フェーズの中で一人ずつ、気が合うか、もしくはスタイルがあうかけがえのない存在がそれぞれにいる、と。そして自分も含め、みなこう話す「あなたみたいな存在が」と。

 

私も、親友に他の親友の話をする時は「あなたみたいな子」と伝えているのでこの気持ちはよくわかる。そして自分自身が同じことをしているので、自分がそう伝えてくれる存在であるということが何より嬉しい。

 

私にとっては「私みたいな存在」が、その子に他にもいることがとても幸せで、同時に、「その子みたいな存在」がいると伝えることで、その子が私にとって取り替えの効かないかけがえのない存在だ、と、きちんと伝わっていてくれたらといつも願っている。

 

さて、『いちばんすきな花』は4人の主人公・潮ゆくえ、春木椿、深雪夜々、佐藤紅葉という年齢も性別も異なる、しかし、それぞれの日常のなかで“友情”や“恋愛”にまつわる人間関係に悩んでいた4人の男女がふとした出来事を機に巡り会い、“友情”や“恋愛”に自然と向き合っていくことになる作品。

 

公式サイトでも、【新たな時代の“友情”の物語であり、同時に“恋愛”も含めた“愛”の物語】と紹介されているだけあり、台詞や演出から、物語を通してこれまでの固定概念や考えを見つめ直すきっかけになるような作品にしたいのだろうという意思が感じられる。

 

そして、冒頭にも書いた「友情にも嫉妬はある。」というフレーズは、このドラマの6話のあるシーンを象徴したような言葉だ。

 

主人公4人の仲も深まり、もう随分親しくなった頃。4人がよく集う春木椿の家に潮ゆくえが遊びに行くと、そこには潮の(かつての)男友達・赤田が保険の営業に来ていた。

 

ここで(かつての)と書いたのには理由があり、実は潮は唯一無二の存在であったはずの赤田と、しばし距離を置いている状況。彼の結婚を目前に、赤田は婚約者から女である潮と「今後2人で会うな」と言われてしまい、2人は長年の友情に終止符を打つことにしたのだった。

 

そんな(かつての)男友達である赤田は、今友達・春木と潮が家に上がって親しくしている様子を見て、いらぬ口を叩き、潮と赤田はしばし言い合いになる。

その様子を春木が他2人に「修羅場のようだった」と伝えたことで「友情にも嫉妬ってあるんだ」というような言葉が会話に登場する。

 

この場面の赤田の気持ちも、私はわからんでもない。

自分は相手にとってかけがえのない存在だと思っていたのに、距離を置いてる間にもう他に大切な存在ができていて、それを悲しく、寂しく感じ、嫉妬のような対応を取ってしまうことはあるだろう。

 

ただ、親友ともいえるような大事な存在が10人くらいともなれば、もうしばらく私はそんな感情を抱いていない。

大事な人がそれだけいるから、それぞれの友の他者との関係性に思いを巡らせ、ジェラシーを感じることから遠ざかったのだろうと思う。

 

20代も半ばを過ぎて、似たような感覚を持つ友人に恵まれたことで、“友情の嫉妬”由縁の束縛から離れ、“かけがえのない存在が平行して複数人いる”関係性を上手く保つことができているのかもしれない。

 

ちなみに、親友が10人いるとは、数多の友人の中から親しい人が誰かと想った時に一番が決めきれない、というよりも、それぞれが持っている異なる魅力に敬意を払って、それぞれの良さを愛して接していたらいつの間にか、そう思えるくらい大切な存在の数が「10人いる」と思うくらいに膨れ上がっていた、というニュアンスが近い。

 

歳が歳なので結婚していく友人も、結婚やその後に家族になることを強く意識している友人も周りに増えてきた。結婚に対して好感ばかりを持っていない私は、彼女たちの気持ちが全然わからない。けれども、だからといって彼女たちの幸せを願わないわけはないし、子供ができたら共に喜び、その子への贈り物まで必死になって探してしまう。

 

その分、結婚に対してあまり前向きではない感情を持っている友人も周りには多くいる。結婚はしたいけど子供は欲しくないとか、配偶者はいらないので子供だけ欲しいとか。色々と話題の卵子凍結についても、検討している友人もいる。

 

皆それぞれの価値観や人生観の中で、当人にとっての大切なものが少しずつ結婚という制度と違っているようだ。故に悩みながら、それでも自分らしく生きられるように工夫したり、新しい考えを学んだりしながら暮らしている。

行ってしまえば、こちらの友人の方が自分の目指す生き方と方向性は近しいけれど、だからと言って「こっちの方が好き」なんて単純な話にはならない。

 

どちらも親友であることには変わりない。志向とする方向性や、描いている未来像は異なり、なんなら反対の方向を向いてはいるけど、私はそれぞれが好きだ。それはそれ、これはこれ、というように。

 

そして最近、マッチングアプリを始めたことで一つ気づいたことがある。

私のこの考えは、どうやら友情だけでなく、恋愛の場面でも適応らしい。

 

「大切な人は一人であるべきだ」という信条の者には、親友という友達との間の事情なら上記のような考えもまだ受け入れてもらえるのだけれど、恋愛となるとそうはいかないことが多い。

 

一夫一妻制が基本である日本の恋愛では、「この人も、この人も好きだし大切」は許され難い。

けれども、人は多面的。どれだけ強い意志を持って「この人を愛そう」と心に決めても、なにか一つが噛み合わなくなった時、人生がたちまち立ち行かなくなりそうで怖いなと思うんだけど、みんなはどうなんだろう。

 

どれだけ愛する者であっても、意見や考え、趣向など、合う場面があれば合わない場面ももちろんある。そんな時、思いを通わせ、吐き出す先が一つしかないのは一か八かの賭けに近くはなかろうか。

 

穏やかに、自分の気持ちを大切にして日々を暮らしたいだけなんだけど、さて恋愛をしようとすると… いちばんすきな花、決めなきゃいけないんでしょうか。

 

私は全部好きなんだけどな。それは難しい希望でしょうか。

 

 

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